Made in Japan

ヨコハマクラシック家具について

歴史

横浜クラシック家具の歴史(横浜クラシック家具とは)

 黒船来航後の1859年(安政5年)、横浜港が開港すると、輸出品目の第一の生糸はここから出荷されていきました。
その後、外国貿易の拠点となった横浜では、日本の絹を購入するようになった欧米からの買い付けで日本国内の生糸の生産は間に合わないほどでした。

 幕末の頃には、多くの欧米人が来日し、日本国内に住居を構えて居留するようになりました。そして、彼らの生活様式にふさわしい洋家具が東洋の島国、日本でも必要となったのです。

 1863年(文久3年)英国人ゴールマンが家具職人・原安造に椅子の修理を依頼することから横浜での洋家具製造技術がスタートし、日本独自の横浜家具・横浜クラシック家具が誕生したのです。

椅子製造 明治12年

 幕末から横浜に進出して幕府関係の建築工事を請け負っていた清水喜助がアメリカ人建築家・ブリジェンスと組んで、慶応4年に西洋式のホテル、築地ホテル館を施工させるが、ここで使用した洋家具は、設備品以外、すべて横浜製であったことから短期間のうちにかなりの進歩があったことがうかがえ、横浜の職人技術の大成はその後の日本の洋家具製造技術に大きな役割を果たしました。事実、横浜で技術を習得した職人達が東京をはじめ全国各地に散らばっていき、椅子張りの技術を日本に定着させていたったのです。

 その後は居留する外国人に愛用されるとともに、帰国する人々にその技術と質の高さから海外に持ち出され、世界でも高い評価を得るまでにいたりました。

 その後横浜クラシック家具は、戦中・戦後の戦災と大震災等の震災を受け、質の低下と技術者の後継者不足から衰退の一途をたどるのです。

  この衰退ぶりを残念に思い立ち上がったのが富沢市五郎(府立東京高等工芸学校教授で三光家具の経営者兼デザイナー)でした。彼は横浜クラシック家具を再興させたばかりか、その質を模倣のモノから創作へとレベルアップさせました。

 三光家具の富沢市五郎は、隣家の株式会社イズミ家具インテリアに勤務する咲寿武道の甥である若い高橋保一と咲寿武道に横浜クラシック家具の技法や歴史、大正の大地震で焦土と化した横浜・東京、さらに第二次世界大戦による手ひどい敗戦からの復興という厳しい時代を経て、今日の平和な時代に、自分達が描いた「横浜洋家具のあるライフスタイル」への夢と希望を託したのです。「本物の家具を多くの人に、そして世界に誇れる品質を・・・」が当時の彼らの真情でした。

イズミ家具昭和20年代

ダニエルを創業したころの高橋と咲寿

 1950年、神奈川県需品家具協同組合理事に就任した咲寿武道はその後、協業組合ヨコハマ・クラシック家具を組織して、その技術を保存し質の向上に努めました。咲寿自らもダニエルの前身である有限会社湘南木工を1943年に設立して横浜クラシック家具の製造に加わり、今日のヨコハマ・クラシック家具グループとダニエルの基礎を作ったのです。

 1960年から1970年代にかけて、衰退しかけた横浜クラシック家具は前者たちの努力により、復興の兆しを見せ「ダニエル」のブランドのもとに集まった横浜クラシック家具を代表する家具職人の親方衆が集まり、技術の伝承と後継者の育成、本物の家具作りに従事していきました。横浜クラシック家具の設計デザイナー石川謙蔵氏に教えをうけた高橋和子は今日に至るまでのダニエル家具製作とインテリア装飾設計を中心に活躍し、横浜に興った日本の洋家具である横浜クラシック家具にカバザクラ(樺桜)、ナラ(楢)などの素材を使い、彫刻やカーブを生かした、時代に左右されることのない本物の家具を確立したのです。

「ニューグランドロビー」と「ニューグランドのセンターテーブル」

6人のクラフトマンの集大成

 その後、家具修理専門の「家具の病院」や家具職人育成の「家具の学校」を設立運営することで、「常に家具を家族のパートナーと考え、本物の家具を多くの人にという」、先人たちの思いを形にするため業界のパイオニアとして存在感あるモノづくり集団と日々努力しています。

家具の学校

 現在はその伝統や歴史を充分にふまえた上で次の世代を継承する咲寿義輝は新しい時代の生活文化を先取りしていきながら、新たな横浜クラシック家具にたゆまぬ挑戦を続けています。

 そして、2010年上海で開催された上海万博の関連行事や横浜で開催されたAPECに神奈川・横浜を代表するモノづくり集団として、参加・展示され海外・国内で高い評価を得ました。

2010年6月

中国上海万博関連事業の会場にて家具・クラフトシリーズを出展

(林横浜市長と咲寿氏)

2010年11月

横浜開催APEC(アジア太平洋経済協力会議)国内唯一の家具出展

横浜元町の家具技術が日本に与えた影響

 横浜元町の家具業界と他の地域との関係について、特に深かったのは東京の芝でありました。「芝家具の百年史」によれば、芝家具の草分け的な杉田屋は開業以前、横浜で中古家具の売買に従事していました。日露戦争後、芝における受注が激増し元町で下請けが行われ、これをきっかけに横浜元町の下請け業者は当時の最新のセンスと技術を持って芝に流出したといいます。このように、芝の家具業界とは関わりが深いのですが、市内の他の洋家具業者との関係は希薄であったようです。
横浜元町における家具業界は、直接的に市民への洋家具普及に貢献したわけではありませんでした。常に先駆者として、より忠実に西洋の技術とデザインを模倣してそれらを習得してきました。それゆれ、他の手本となり技術は盗まれ、あるいは職人が流出していったのだと考えられています。横浜元町の洋家具製造における先駆性と日本の家具業界に与えた影響は銘記されてよいでしょう。

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